私が中学生の頃。本当にうちは貧乏な生活でした。父は季節労務者なので、冬になれば仕事は少なくなります。
この年は、様々な事があり、日々の生活もかなり切り詰めていました。そして、冬はイベントがたくさんあります。
クリスマスにお正月。町はきらびやかなネオンが広がり、クリスマスソングや軽快な音色が溢れます。
そんな華やかさが、更に自分達の生活を惨めに感じさせるのです。
いつもだったら、大きくはなくても買えたクリスマスケーキも買えず、クリスマスの食卓も特に普段の食事と何ら変わりませんでした。
そして、私には後悔があります。
大晦日が近づき、スーパーに買い物に行った時に、私は母に栗きんとんが食べたいとワガママを言ってしまいました。
小さい頃から、私は栗きんとんが大好きで、特に一年に一度しか売り出さない栗きんとんは、特別好きでした。
買い物客が次々とお正月の食べ物を買っていく中、私は分かっていた筈なのに、母にワガママを言ってしまったのです。
その時の、母の哀しそうな顔を、今でも忘れられません。
親ですもの。子供の好きな物を買ってあげたいと母だって思っていたはずです。
ですが、小さな栗きんとんさえ買えなかった母の辛さを思うと、今でも胸が痛いです。
なぜ、あんなワガママを言ってしまったのか。帰り道。前を歩く母の背中が微かに揺れている姿が、忘れられません。
貧乏な時というのは、世の中が華やかな時には、殊更惨めに感じるものです。
通りすぎていく人々が、なんだか全て楽しそうに、幸せそうに見えてきてしまい、落ち込んでしまうものです。
それでも、両親なりにクリスマスやお正月には、いつもよりは華やかな事をしようとしてくれたんです。
いつもと変わらない貧乏飯ですが、野菜を飾り切りにしてくれたり、マッシュポテトに食紅で色をつけてくれたり、なんとか私を少しでも楽しませようとしてくれました。
私には、その気持ちだけで十分でした。
両親が、何も出来なくてごめんと謝る度に、私も辛かったです。両親の方が、私よりも辛かったに違いありません。
華やかなイベントに何も出来ない惨めさというのは、言葉では表せないものもあります。
まるで、取り残されてしまったかのような不安と、周囲とは違うんだとあからさまに見せつけられたような惨めさを感じます。
今でも、クリスマスやお正月が来ると、あの頃の事を思い出します。
でも、貧乏な生活でしたが、両親の愛情を注がれ、私はそれだけでも幸せだと思います。
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